オンライン講師が描く「ハクションな日常」

人生はハクション*くしゃみしたら吹き飛んでいくような

地下室の男③~あるOLの回想

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すっかり忘れていた!

何しろ、日々の仕事で地下室に行くことなど無い。
何年も…
いや、この会社を去る事があったとしても
地下室に行く用事など
ほぼ無いのだ。
だから、忘れていた。

いつものように、社長以外はまだ出社もしていない午前8時過ぎ。
その電話は鳴った。

始業前に、電話が鳴る事は珍しい。
わたしは、それが
“良い報せではない”事を察知した。

電話は、人事の木村からだ。

「始業前にごめんなさいね」
その声は、低く静かで
いつもの木村よりもさらに、落ち着いた声だ。

「実は・・・
 史料編纂室の田代さんが、急に亡くなったの。
 それで今夜、お通夜があるんですけど
 何しろ、ああいったお一人の部署だったし
 それほど交流のある仕事関係もなかったものだから
 ちょっと寂しい感じになっちゃうと、あれなんでね…。
 こういう事でお誘いと言うのも変なんだけど
 出来たら、出席してもらえないかしら」

それは、わたしに伺いを立てながらも
何故か、強制のように聞こえる。

わたしは、田代がどうこうというより
これは社内業務の一環なのだと理解した。

その日の夕方、一旦少し早く帰宅したわたしは喪服に着替え
品川の降りたこともない駅でウロウロしていた。

「あら! あなたも来てたのね」
それは、弾んだ渡辺の声だった。

こんな時なのに、渡辺は明るい。
というか・・・
ほとんど付き合いもなかった田代の死に
急に、悲しめと言われても 無理な事だろう。
しかし、ここは「それらしく」しなければならない。

「ねぇねぇ、不思議なんだけど
 お葬式は誰が出すのかしら」
渡辺が言いだした。

「だって、田代さんって、あの2度目の奥さんとも離婚して
 独り身だったのよ。
 私、前に聞いたことあるけど
 なんか田代さんとこって複雑らしくてさ
 親、兄弟もいるんだかいないんだか
 だから離婚したってなると、誰が葬式出すんだか」

渡辺は心配と言うよりも、面白がっている。
とは言っても、斎場の前まで来ると、渡辺も話をやめた。

受付には、社内の知った顔が並んでいる。
本当に、身内と言える人がいないのか少ないのか…。
わたしは、心の中で呟く。

そして、次の瞬間
わたしは、こんな通夜の席で驚くことが
あるとは思っていなかった。

その身内の席には
あの
いつか、会社の入り口で立ち尽くしていた母娘が並んでいた。

娘たちはずいぶんと大きくなり
母親の髪には、白いものが目立った。
子供は無表情で座っているも
母親の方は、ハンカチで涙を拭っている。

気が付くと、人事の木村がそばにいた。

「えっと、これって…」
わたしは、思わず囁くように言葉を漏らしてしまった。
木村は察したようで…

「お身内がいないらしくてね
 どうしようもなくて、こうなったらしいのよ」
と、それだけ呟いた。

焼香を終え、私は足早に通夜の場を離れた。
後から、渡辺が出てきて
面白いものを見たかのように
来た時よりも声を弾ませていたが、わたしは聞こえないふりをした。

不意に、後ろから声を掛けられた気がして
振り向くと
そこには、木村が居た。

「ご苦労様でした。本当に申し訳なかったわね」

こんな時、何を話してよいのかわからない。
しかし、わたしは思わず浮かんだ言葉を口に出していた。

「なんか、複雑でしたね。
 とにかく、びっくりしました」

「そうね…
 まさか、別れた奥様
 それも最初の奥様が、お葬式を出すなんてね」

「泣いてましたよね」
わたしは、主語もつけず呟いた。

「そうね… 不思議ね」

わたしは、急に言ってはいけない事を口にしたような気がした。

ふと、木村の不倫相手と言われていた
副社長の事、そして葬儀の事を思い出したからだ。
話を違う方へ向けようとした時
木村が、何処かわからぬ方向を見ながら話し出した。

「男と女って
 それも夫婦となると、一筋縄ではいかないんでしょうね。
 別れても、それで終わるわけではないのよね」
そう言うと、木村は大きくため息をつき話を続ける。

「もしかしたら
 やっと、帰ってきたと安堵してるかもしれないわね」

木村の顔が、わたしには能面に見えた

ふと
わたしは、今来た道を振り返った。
一瞬、あの母娘が風に吹かれて立ち尽くしている場面が
わたしの目の前を通り過ぎた。
そして
待ち焦がれ、やっと帰ってきた父親の姿に
安堵し、涙している母娘が見えた。

何の縁もゆかりもない“地下室の男”。
今日のこの日は、わたしにとって何か意味があったのだろうか?

そんな事を思いながら

喪服で歩く戸越銀座には、冷たい風が吹いていた…The End!


優河「灯火」(2022)

一筋縄ではいかない、男と女の関係。
あぁ…恐い(꒪ཫ꒪; )

TORIA (o ̄∇ ̄)/

 

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